大正天皇の誕生日が祝日でないのはなぜ!?なぜか黒歴史化されている大正時代

私、学校教育の中で、日本史を明治以降の「近代」を教えてもらったことがありません。これって単純に時間が足りなかったからだと思ってましたが、もしかしたら意図的に避けられていたのかな?
まぁ、真実はわかりませんが、祖父母の生まれた時代であり身近であるべきはずの「大正時代」についてこの機会に調べてみました。

スポンサーリンク


大正天皇の誕生日だけが祝日ではない!?

平成の天皇、現上皇様のお誕生日12月23日が祝日でなくなったことで、過去の天皇誕生日について調べてみると下記のように崩御されてから祝日として残すようになったのは、明治以降ということがわかりました。

ところが、大正は明治の後でしたよね???

なのになぜ大正天皇の誕生日だけ慶節扱いされなかったのでしょうか。

昭和天皇 1901年4月29日(みどりの日)
大正天皇 1879年8月31日(平日)
明治天皇 1852年11月3日(文化の日)

孝明天皇 1831年7月22日(平日)

スポンサーリンク


大正天皇の人物像

大正天皇ってこんな人

名  前:明宮 嘉仁(はるのみや よしひと)
生年月日:1879年8月31日
没年月日:1926年12月25日(47歳没)

系  譜:明治天皇と側室 柳原愛子(やなぎわら なるこ)の間の子
身  位:天皇
お  印:壽(ことぶき)                             ※系譜は2018年12月現在のもの
配 偶 者 : 貞明皇后
皇 子  : 昭和天皇、秩父宮さま、高松宮さま、三笠宮さま

大正天皇は明治以降で初の一夫一妻制を採り、また誕生から即位を経て崩御するまで生涯を通じて関東の地で過ごされた最初の天皇です。

ご生誕から天皇即位まで

明治天皇の第三皇子として誕生、明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王と命名されました。
お父上である明治天皇は正室と5人の側室との間に5男10女をもうけましたが、成人したのは男子は大正天皇のみ、女子では4人。他の10人は死産もしくは幼くして亡くなられました。

嘉仁親王は産まれた時から体が弱く、1887年(明治20年)学習院小学校に入学しますが、2年生で83日欠席し留年、6年生でも74日間欠席しています。

1889年、旧皇室典範により皇太子となりましたが、1894年には健康不良のため勉学を続けることが難しいとして学習院中学を中途退学しました。退学後は家庭教師のような形で教育係がつき、勉学を修められたようです。

その後、18歳で貴族院の皇族議員となり、1900年(明治33年)九条道孝(明治天皇の相談役)の四女・節子(さだこ)さまと結婚。四人の皇子に恵まれました。(お身体が弱かったのにこれはすごい!)
そして側室を持てるお立場でありながら、一夫一妻制を採用された初めての天皇でもあります。

1912年(明治45年/大正元年)7月30日、明治天皇の崩御により第123代天皇に即位し大正と改元されました。

摂政の設置

即位されてすぐ、翌年の1913年には肺炎で重体。
1914年には第一次世界大戦参戦。

お体が弱いことに加え、心労も重なる時期でしたでしょう。
1919年には勅語(天皇が国民に対して発する意思表示の言葉)を発することも叶わなくなり、政府は大正天皇の病状を公表、摂政の設置の準備を始めました。

そして1921年、ついに裕仁親王(ひろひとしんのう)(後の昭和天皇)が摂政に就任し、これ以降大正天皇が政務に復帰することはありませんでした。

スポンサーリンク


大正天皇の誕生日はなぜ祝日じゃないの?

さて、そこで本題です。
なぜ大正天皇の誕生日は祝日でないのか。

その前にまず明治天皇です。

明治天皇は京都の伏見桃山陵に葬られましたが、東京の神宮があるのは、偉大な君主を敬愛する国民が熱望して寄付を集め自発的に建立したものでした。
法律に天皇の死後についての定めはなく、崩御から15年後、これも国民が請願する形で明治天皇の誕生日が祝日として成立しました。当時は「明治節」という名称だったそうです。
その後、日本国憲法制定時(1947年(昭和22年)5月3日施行)に「文化の日」と名称変更されました。

ちなみに日本国憲法施行以前は、誕生日ではなく、崩御の日を祝日とすることが決まっていたそうで、これに従い、大正天皇崩御の12月25日も以降20年間(1927年(昭和2年)から1947年(昭和22年))は祝日となっていたんだそうです。(知らなかった!)

そして昭和天皇に関しては、天皇の崩御後に国会が「祝日法」を改正して「みどりの日」として制定したのでした。

こうした流れをみると、なにか特別恣意的なもので大正天皇が軽んじられたということではなく、たまたま国民としての世論が盛り上がらなかった・・・から?
ということが言えそうです。

貢献が足りないとか、人望がなかったとかそういう理由ではなかったのは救いです。

スポンサーリンク


知的障害の噂

天皇の統治権をたすける機関としての帝国議会、その開院式で、読み終わった勅語の巻物をぐるぐると丸め遠眼鏡のようにして覗き込んだという逸話があります。

それ以外にも政治的な判断が不得手でいらしたことなどにより「暗愚(物事の是非を判断する力がない愚か者)」とのレッテルを貼られてしまったようです。

確かにご病気を発症されてからは言葉も発せなく、とあるので何らかの脳のご病気を患われた可能性はありますが生来の知的障害とするにはあまりに失礼です。

家庭教師の先生の影響で漢詩や和歌にも親しまれたそうですので、この噂に関してはデマと言えるでしょう。
それにしてもここまで愚弄される大正天皇・・・お気の毒すぎる・・・。

今からでも「8月31日を祝日にしよう!」運動起こしせんか?誰か。ご一緒に。