野中広務、出自を隠さず権力の中枢までたどり着いた唯一の人物!昭和の政治家一代記

小渕政権時の官房長官を務めた野中広務氏(92)が京都市内のホテルで倒れ、病院に緊急搬送されていたことがわかりました。

「容体は安定」とする報道がある一方で、「以前意識不明の状態」との報道もあり、情報は錯綜しております。いずれにしても92歳のご高齢でいらっしゃるので心配です。

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野中広務氏プロフィール

野中 広務(のなか ひろむ)

生年月日:1925年10月20日

現年齢:92歳

出身地 :京都府南丹市(旧・園部町)

配偶者:野中 つた枝(2011年1月死別)

前 職: 衆議院議員秘書
京都府副知事
現 職: 社会福祉法人京都太陽の園理事長
京都府土地改良事業団体連合会会長
平安女学院大学客員教授
立命館大学客員教授

派 閥:経世会(竹下派・小渕派)

所属政党:(自由民主党→無所属→)自由民主党

1940年 旧制園部中学校卒業後、15歳で大阪鉄道局(現・JR西日本)に就職

1945年 20歳で終戦を迎える

1950年
 25歳で故郷、京都府園部町の町会議員に初当選

1955年
 30歳で9歳年下のつた枝さんと結婚。政治家の妻になることを渋っていたつた枝さんに対し「もう選挙には出ないから」と説得し、プロポーズを承諾させる。

1958年
 33歳で園部町長に当選。町長を二期(8年)務める

1967年〜1978年
 京都府議会議員を経て、京都府副知事を務める
この頃、当時全盛を極めた田中角栄自民党幹事長や竹下に見出され、衆議院へ出馬。

1983年 衆議院初当選 この時すでに57歳
政治家として極めて遅咲きの部類である。

1994年 村山内閣で自治相(現・総務相)として初入閣

1998年 小渕内閣では官房長官

2000年
 森政権で自民党幹事長などを歴任

2003年 政界を引退

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野中広務の功績とエピソード

野中氏の最大の功績

最大の功績は、なんといっても自公連立政権誕生の立役者であったということに尽きるでしょう。

それまで「悪魔」とまで形容し、敵視していた存在の小沢一郎氏に対して、頭を下げて国民の利になることを信じて、現在の安倍政権まで続く自公連立を実現させたのです。

というのも、当時日本は相次ぐ金融機関の破綻、北朝鮮によるミサイル問題(今も悩まされていますね)等で国政はまさに一刻の猶予も許されない状態。ところが、自民党は衆・参両院で過半数割れしており、国会で法案を通すこともままならなかったのです。

そのため、公明党の支持母体創価学会を口説き落としたわけですが・・・
創価学会はなぜ、動いたのか?
これにも面白いエピソードがありました。
これは改めて別記事にしたいなと思います^^

まぁ、とにかく!
びっくりするような大胆で痛快な交渉術ですよ!
江戸末期の坂本龍馬を思わせる策士ですね〜。

国会の暴れん坊ハマコーが認めた57歳の新人

野中「ハマコー(浜田幸一)さんが建設委員長で、私は建設委員だったんです、で、ハマコーさんにね、京都は遅れとるから質問させてくれと」
鶴瓶「ええ」
野中「したら『ああ、君はよく俺のに出席してくれるからやれ!』と言って、やらせてくれたんです、で、最後終わったらハマコーさんがね、『委員長として特に申しおくことがある、今、発言された野中委員は、本委員会において一番出席のよい委員だ、よって、どの局長も野中さんの言われたことを全てやるように!』、委員長として申しおくと会議録に載っとるよ」
2008年1月1日放送「まだまだ日本はよふけ謹賀新年SP」(フジテレビ)

細川護熙元総理との関係

税制改革を巡る予算審議で戦い、退陣に追い込んだ細川元総理については
「立場上攻撃せざるを得なかったが、ひとりの人間同士になれば、あの人は気の毒だったなと思う」とのことで、今は陶芸家である細川氏の工房「不東庵」を訪ねたりしているそうです。

なんとも温かい、人情に厚い野中氏の一面がうかがい知れますね。

影の総理

その影響力の強さから「影の総理」などと呼ばれたり、「野中総理待望論」もささやかされる存在でいらっしゃいました。

ところが2001年4月、森喜朗元総理の退陣表明を受けた総裁選、自民党党大会の前日
大勇会(河野グループ)の会合で、麻生太郎氏は野中氏を名指しして言い放ったそうです。

「あんな部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」

この国の歴史で被差別部落出身の事実を隠さず、権力の中枢までたどり着いた人間は野中しかいない。ようやく山頂にたどり着こうとしたところで耳に飛び込んできた麻生の言葉は彼の半世紀にわたる苦闘の意味を全否定するものだったに違いない             魚住昭「野中広務差別と権力」

この後、政調会長として打倒小泉に破れた麻生太郎氏に「君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずはないんだ。」と言い放った野中氏の発言には、政治家としての自身のアイデンティティを全否定された私怨もあったに違いありません。

流行語大賞「毒まんじゅう」

人気は高いけれど、稀代の「独裁者」小泉純一郎元総理から郵政民営化の改革を邪魔する「反対勢力」のレッテルを貼られた野中氏。

小泉氏優勢がわかると自派の代表ではなく、森派の小泉氏支持に転じた一部の議員を揶揄(やゆ)して「毒まんじゅうでも食らったんじゃないか」と発言したことから2003年の流行語大賞を受賞したなんてこともありました。

注釈)うまそうな話に乗り相手の術中に落ちてしまうことを例えて「毒まんじゅうを食う」と言う

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最後に

タイトルに入れた「出自を物ともせず」ですが、野中氏の被差別部落のご出身のことを言っています。
この事実によって大阪鉄道局時代もいくら人より仕事を頑張っても、出自を理由に正当な評価をされなかったそうなんですね。

差別を根絶するために政治を変えなければならないという思いを強くされ、コネや地盤もない状態から一歩一歩確実にキャリアを積み上げ壮年期を過ぎてから大事を成し遂げた方なのです。

週刊朝日の「歴代官房長官ランキング」(2014年8月8日号)によると

1位  後藤田正晴氏 90点代
2位  梶山静六氏  70点代
3位  野中広務氏  70点代
4位  菅義偉氏(現官房長官)70点代
5位  宮澤喜一氏  70点代



16位 枝野幸男氏  得点不明

と、政治アナリストからの評価も高いことがわかります。

今回改めて野中広務さんという人物について調べてみて、こんなにも魅力的で求心力のある方であったのかと静かに感動しております。これだけ熱い思いと覚悟を持った政治家が今の時代にいるでしょうか?

もし叶うならば、あともう少しだけ頑張っていただいて後進を育てる時間に当てていただけないかなと願ってやみません。

ご回復をお祈りしております。

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